出張蕎麦屋をはじめて13年。


国内、北は北海道から南は沖縄まで、国外はスイスや韓国まで、全国津々浦々、多くの方々との出会いを紡いできました。
この「出会い」の糸を、現在の自分の活動も含め、これまでを振り返りながら綴っていきたいと思います。
 
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ヴィパッサナー瞑想体験記
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    当初、東京そば行脚を予定していたのですが、ことごとくキャンセルになってしまい、急きょ京都でのヴィパッサナ瞑想会参加に変更いたしました。
    10日間みっちり瞑想の会。
    この間は、規則により、誰とも会話はおろか視線を合わせることさえもできない。
    電話やノートとり、読書さえもできない。
    毎日11時間の瞑想で、朝は4時半から夜は、9時までの瞑想三昧。
    食事は、玄米菜食中心で、朝6時半と昼11時の2回。
    夕方5時にお茶と果物が出る。
    9時半には床につくので、非常に健康的な毎日だ。

    この会で、お釈迦様が悟りを開かれた瞑想法であることをはじめて知る。
    タイ、ミャンマー、スリランカなどの上座仏教(小乗)に伝統的に伝わってきた瞑想法ということだ。
    ヴィパッサナーの意味は、「明確に気づき続けている」という瞑想法。
    中国には「四念住経(サティパッターナスッタ)」として伝わっているらしい。

    最初は、アーナーパーナーと呼ばれる呼吸を観察する瞑想法を行う。
    これをクリヤーしてはじめてヴィパッサナーの瞑想へと入るという手順だ。
    ヴィッパサナーでは、頭から足先まで、意識を意識的に動かしながら、全身に起こっている知覚(たとえば、もじもじ、ビリビリ、スースー、もわもわ、ピリピリ、かゆみ、皮膚と服の擦れ、痛み等あらゆる感覚)をひたすら「意識」してゆく方法がとられる。

    初日

    「これから皆さんは、心の手術をしていきます」

    と、講和テープからのアナウンス。
    「え?そんなつもりできているのではないのだが…」と思いつつも、「まー体験してみよう」と思い直し瞑想。
    1時間、1時間半、2時間の瞑想を1日中繰り返す。

    最初は、呼吸の観察。

    「右の鼻からの息か、左からの息か、はたまた両方からの息か…どちらにしても、ただひたすら観察してください」

    と、言われ、よくよく観察していると、午前中は左の穴から、午後は右の鼻の穴からの呼吸がなされているのに気が付き驚いた。
    いつも両方だとばかり思っていたので…

    今まで座禅断食会で1回20分の座禅を15回という経験はあったけども、さすがに1回2時間は、お尻が痛くなる。
    股関節も痛い。
    背中も痛く、肩もこってくる。

    「太極拳やヨーガは効果があるのは、知っていますが、ここではこれもやらないでください」

    と、また理不尽な説明。
    体が痛くては、集中もしにくくなるので良くないではないか?と、勝手にストレッチをしっかり行った。

    2日目

    初日と同じ、鼻下での呼吸の観察。
    息が唇にあたるのを感じているか、鼻自身を覚知しているか、他の感覚はないかを観察。
    上唇を底辺とし、眉間を頂点とする三角形の中に意識を集中。

    食事もひたすら沈黙行のため、順々に列をなし、前の人が取り終えないと進めない状況に、
    「要領が悪いナー」と思いついついイライラする。
    列を横切る時に、「ちょっと失礼」という意味を込め、手で列を遮るジェスチャーに対しても皆無反応。
    おいおい本当にこんなんでいいのかいな?
    と、疑念が湧く。

    「ここには自分以外誰もいないと思って、すべて行動してください」

    とは言われたものの、何か合点がいかない。
    せめてジェスチャーくらい許されるべきだろう…と勝手に判断。

    3日目

    さらに前日の三角形の面積をさらに狭め感覚を意識する。
    鼻先を頂点にした三角形中で…。

    瞑想のはじまる前に毎回、ゴエンカ氏の英語の講和の後、すぐ日本語約が流れる。
    パーリ語の詠唱が流れるが、これが何を言っているのか、ゴニョゴニョしていてなんとも間が抜けた感じに聞こえる。
    最後に必ず

    「アニッチャー、アニッチャー、アニッチャー」(全ては変化する)

    法話の中で、いろんな例え話が出てくるが、はじめはなるほどと感心して聞いていたものの、
    例えが、いくつも同じようなことが出てくるので「くどい」と感じる。
    「何度も言わず、早く次の話、ステップに行ってくれよ〜」
    という思いが募る。

    1日に1回、4,5名づつの名前が呼び出され、先生の前で
    「しっかり感じとれてますか?」
    と一人一人確認される。
    疑問等ある時は、この時に聞く。

    参加者は全員で60数名。
    男女比は、ほぼ同じくらいだが、女性が多い。
    見たところほとんどが20代〜30代と若い人が多い。
    4,50代は少し。
    お坊さんらしき人は一人、外人さん1人。
    修行している人が多いのかな?と思っていたが、まったくそうでないところにビックリ。
    不思議な感じだ。

    1日の終わりには、必ずまとめの講和テープが流され、その話に毎回「ナルホド!」と感動したり、疑問に感じていたことが述べられるので驚く。
    願わくば、1日のはじめに話されれば、その修行の目的が明確化されて、非常に取り組みやすくなるのに…とも思う。
    しかし、毎回、知りたかったポイントを知れたり、御釈迦さんの説いた12支縁起や五蘊、八正道が、非常に納得できる感じで説明されているのに目からウロコが落ちる思いだった。
    今まで、どの解説書を読んでも、スッキリしなかったものが、クリヤーに整理される。

    「う〜ん、これはスゴイ!」

    と感動して床につく。
    通常、こんないい状態で寝付けば、夢も見ずぐっすり眠れるはずなのが、昨日から性的な変な夢ばかり見る。
    一部屋に7人寝ていたが、一人の方は、悪夢からか、真夜中に何事か叫びながら、ガバッと起きられ、自分でも夢に気づいたのか、ちょっとバツが悪そうに外へ出ていかれていた。
    一言も誰とも言葉を交わさないと、ひたすら自分の内面に向き合うことになる。
    この状態が、どうも潜在意識が表面化しやすい状況をつくるように思う。

    4日目

    ヴィパッサナーの瞑想へと入る。
    最初は、頭の上に「明確な感覚」を感じるか?の訓練。
    常に「明確な知覚」「感覚」があるかを問われる。
    自分の場合、はっきりと知覚できる感覚は、血液の「拍動」だったので、ひたすらこの感覚に耳を傾ける。
    するとオモシロいことに、意識をそこへむけ集中すると「明確」に、拍動をドクドクと知覚できる。
    もちろん心臓以外どこでも。
    どこでも知覚できるので、できないところを勝手にどんどん知覚化してゆく。
    例えば、耳たぶの端、上から下までとか。
    あるいは肩甲骨の先端部。
    はたまた、手の指先1本1本から足の指先1本1本。
    知覚できないとこは、息を細く長くすると、自然に感じ始める。

    「はっきりと感じますか?」

    と、聞かれ「ハイ」と答える。

    静かにしていると、心臓の鼓動がドクンドクン聞こえてくるが、そのうち、お腹の大動脈、背中、頭頂、鼠蹊部等々いろんな所から同時に重なりながら聞こえてくる。
    まるで鼓動の交響曲のようだ。

    この日、本当にいやな変な夢を見た。

    家の中の整理をしていたら、ダンボール箱何杯もの録画したエロビデオのCDが出てきて、なんだか恥ずかしいーなーと、我ながら困った…という変な夢。
    いい状態で寝ているのにやっぱりおかしい、3日間つづけて変な夢を見るのは…
    そこで、先生に尋ねてみると、やはり潜在意識の活性化でいろんな夢を見るという。
    夜中に起き上がった同室の方も、おそらく同じようではないかと思う。

    5日目

    ようやく1日の日課に慣れてきた!
    と、思っても、うまく瞑想に入れたり、はたまたできなかったりと一進一退を繰り返す。

    しかし、全身の拍動を聞き取れるので、この日も寝ながらヴィパッサナーをした。
    すると、この時、昨日までとは全く違う夢を見た。

    数か月前だったと思うが、NHKのETV特集の告知で、どこか取り壊しになるビルの一階にある「ロアール?」とか言う喫茶店が、独居老人や障害を持たれている方、そうした方々の心のよりどころとなっているというドキュメント映像があった。
    わずか数分の映像で、すっかり忘れてしまっていたが、その映像の中で、障害をもたれた方が施設に仕方なく連れられていく場面で、年よりの喫茶仲間が「連れていかないで!」と大きな声で叫びながら何度も何度も呼び戻す…という映像があった。
    この場面が、自分の夢の中で何度も何度も、繰り返されるのだ。

    この時、目の奥の拍動と映像がリンクしているのがはっきり「知覚」された。
    それともう一つ、自分のトラウマを自覚した。

    小学校3年から4年に上がる春休み、両親から突然熊本への「転校」を告げられ、激しく抵抗しながらも車の中で行くしかなかったという「理不尽」な情景が、この夢で見た映像と「感情」が全く一致した。
    自分では、これは自分の「自立性」として捉えていたが、実際は自分の過剰な「執着」となっていたことに直観。
    複雑な心境ではあったが、ストレートに

    「う〜ん…これは手放さなくては…」

    と、思った。

    「知覚された身体感覚」と「記憶」と「感情」が、全部一つに、「体」に結びついていることを実感したのは驚きだった。

    6日目

    拍動を聞く、全身知覚化は、どんどん進み、この日は、臓器一つ一つから、背骨の中の一つ一つに至るまで明確に知覚。
    前頭葉、側頭葉、脳幹、視床下部、延髄等々すみずみまではっきり知覚。
    本当は、みんなと同じようにまだ頭頂のみをしっかりと意識化しなければならないようなのだが、こっちはどんどん自分で進めるので、勝手にはじめてしまった。

    細部を意識する時に、目の奥、特に左目の奥をぐーっと緊張させるため、目の自己整動(活元運動)が活発になるので、目やにがやたらと出る。
    目が悪いせいもあるだろう。

    この日も全身拍動を意識しながら寝ていたら、また変なリアルな夢を見た。

    世界中から「私はヴィパッサナーでこんなに幸せになりました」というような明るい表情で、家族が映っている写真が大きく載ったカレンダーが、どんどんウチに届くのだ。
    「事務局でもないのに何かの間違いだろう…」
    そう思いながらも、ハワイやアメリカやアフリカやらいろんなところから送られ続ける。
    そこで、目を覚ましたが、なんとなく夢と現実との区別がしにくい。
    変な夢だなーと思う。

    7日目

    頭頂から足先までの全身知覚化の指導がなされた。
    7日間も毎日11時間瞑想を続けると、もう背中が筋肉痛でパンパン…
    と、思っていた矢先、あっという間に溶解するという不思議な体験をする。

    背中は、ちょうど肩から1本のワイヤーがかかり、その先に分厚い鉄板が左右の背中に張り付いている…くらいの筋肉痛の感覚があった。
    この鉄板が、突然、カーッという熱がうなりを伴ってジューッと溶解してゆくのだ。

    「瞑想中に出る痛みなどは、単なる痛み、筋肉痛ではありませんので、ストレッチなどでほぐさないでください、太極拳やヨガなどしないでください」

    そういわれていた意味がようやく分かった。
    これら、肉体に現れている痛みなどの感覚は、夢同様、いままで「クリーニングされてこなかった潜在意識の記憶の現れ」だったのだ。

    「この瞑想では、いろんな体験をします。しかし、どんな体験であれ、すべては変化していきます。これを御釈迦さまは、「無常」といわれました。生じれば滅します。これは真理です。ここでは、それをひたすら「変化」としてただ「観察」し続けます。判断しません。ただ、「観察」します。明確な意識で知覚するだけです。そして常に完全な平静な心でいるだけです。」

    なるほど…

    それで、瞑想前に毎回、ゴエンカ氏がテープで

    「明確に知覚する意識」か?
    「完全に平静な心」か?

    を、問いかけているのか…

    瞑想に集中できてくるとお腹も全然減らなくなる。
    最近、座禅断食をしてないので、ここでついでにやってしまおうか…とも考えどんどん食をへらしていった。
    6日、7日は、水分以外は、ほぼ断食状態だった。
    が、戻すことも考えて8日目からは、少しずつ食を戻し始めた。
    この日は夢は見なかった。

    8日目

    全身意識化の入り方が少しずつ分かり始めた。
    ある時から、目を開いてみれば普通に胡坐をかいているのだが、目をつぶった感覚では、どうも手と足が上に吊り上げられ、浮いているように感じる。
    実際の感覚がずれる。
    脇の下に浮き袋をいれ両脇が浮いているような感じがずっとある。
    痛みが現れては、消え、現れては消える。
    ただひたすらアニッチャー、消えていく様を「観察」しつづける。

    「完全に平静な心とは、悪いことがあっても、どんなことがあっても平静でいるということです」

    という言葉がストンと腑に落ちる。
    なるほど、これが「大安心の心」だな、と実感。

    ただひたすら「観察」する先にニルバーナ(涅槃)があるのだな…

    ほんの一瞬、自我がほとんど消えるという体験をする。

    自他の区別が忘れさられる状況。
    どっちも意識しながら、無判断の状態でいつづけていた。
    チャイムで我に還る。

    体験を通して学ぶのが「瞑想」であることを実感。
    自分で問うて、自分で答える。
    「肉体感覚」を知覚することで心と体の両方を同時に観察していることに気づく。
    まったく、

    体=心

    であったのだ。
    だから瞑想、座禅で姿勢を崩すことが許されないのだ。
    というか、瞑想だと自然と、否が応でも、姿勢がよくならざるを得ない。
    この姿勢が、一番、整動が出てもバランスをとりやすいのだ。
    ナルホド…と一人で合点!

    瞑想は究極の自己探求法であり、整体法だ。
    体がすべてを知っている。

    全身覚知感覚は、つまるところ自分では「気功感覚」だということがハッキリと知覚された。
    そして、この全身感覚を持って、姿勢を保ち、心を一つに(ここでは知覚に)定めていれば、
    勝手に、自己整体、自己整動でいろんな病気が治っていく…
    ということも実感。

    結局は自分が病を作りだしていることに気づく。

    変えることができるのは、自分自身でしかありえない。

    瞑想は、気功状態から活元運動を誘発させ、自分の潜在意識をクリーニングする方法なのだ!

    今までやってきたことが、すべて「瞑想」に集約された。

    自分は今まで「急ぐ」ことを体の潜在意識に習慣化してきたことも実感。
    意識が慌てると、右の肩甲骨の内側に「緊張」のこる感覚が現れることも発見。
    これをバロメーターにする。

    痛み=悪いモノ

    と、すぐさま「判断せず」に、痛みはいずれ消えゆく「痛み」として、「変化」として観察。
    いのちさえもいずれは消えてなくなるのだから。

    いままで、死は「悲しいもの」「わびしいもの」「つらいもの」といった情動で「感覚」していたが、よくよく考えてみれば、生死は、感情で捉えるものではない。
    なぜなら、生死は、宇宙の法則、真理なのだから。
    例えれば、「1+1=2」を見て、悲しがったり、わびしがったりする人がいないように、生死も足し算引き算と同じ「法則」に他ならない。

    はじめて「無常」の意味が分かる。

    日本では、どうしても「祇園精舎の鐘の声、舎羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」という琵琶法師の哀愁漂う平家物語で「無常」を「無情」という「情」で感覚するので誤認してしまう。

    すべてはあるがまま。
    変化するまま。

    9日目

    もう全く、曜日感覚が無くなっていたので、今日が10日目だと勘違い。
    他にも同じような方があった。

    瞑想には、かなり要領を得て、入りやすくなったので、どんどん体感する。

    この日は、肉体感覚とビジョンとが合体し、3Dを見るようだった。

    目をつぶると宇宙が見える。

    漆黒の闇に、星々が輝く。

    はじめ、真っ黒な泥の中から巨大なビルがゆっくりと上昇してゆく。
    上昇してゆくと、あたりが清明化して宇宙だったことに気づく。
    巨大なビルは筒状になっていて、それがガパッと開くと中は空洞、その向こうに宇宙が見える。

    体=宇宙だった。

    それらも上昇してゆくと今度は、どんどん軽くなり、白い羽衣がゆっくり(右回りで)上に螺旋を描きながら上昇してゆく。

    これら一連の動きが、背骨の解放の動きであることが分かる。

    チャクラを下からほぐすような感じだ。

    胸まで来たとき、前後に胸から人型十字がズワーッと一直線に広がる。

    どんどんビジョンは変化している。

    本当に3D映像をみている感覚。

    どうも、自分の得意な知覚で感覚が合成され、表現されるらしい。

    この体験を通して、御釈迦様が、菩提樹の木の下で瞑想中、あらゆる誘惑を取り除き、

    「悪魔よ立ち去れ!」

    と命令されたのがよく分かる。

    御釈迦さまも、こうした様々な体感を通して、執着を一つ一つ手放していかれたのだ。

    確かに、これならば悟れる…

    というのが実感される。

    すごい!

    この日、沈黙が解かれ、互いの体験を語ることが許される。
    息せき切ったように、みんな話し始める。
    それぞれに体験していることが違ってオモシロい。
    一人の方は、いわゆるクンダリーニの上昇、尾てい骨から頭頂まで背骨に電気が走り、真っ白の恍惚状態を味わった様子。
    またある方は、内臓に手がいれられるほどのリアルなビジョンをみたり、などなど。

    ここから互いの情報交換、名刺交換がはじまる。

    9日ずっと一緒にいてはじめての交流。

    とても面白かった。

    もうあとわずかしか瞑想三昧できないので、出せるとこまでどんどん出そう!
    と、休みも惜しんで、出るだけどんどん出す。

    あと、1か月ほどやってみたい。

    それほどおもしろい。

    拍動が知覚された時に、いろんなアイディアが浮かび、こったところに軽く指で押さえ、拍動を感じはじめたら少しずつ解放し、緩めるということをしたら、翌日はやったところのこりは消えていた。
    整体に使える!
    ということも分かった。

    結局は、知覚されたものが自分自身の世界に他ならない。
    また、自分が投影したものを自分が知覚する。

    「天上天下唯我独尊」

    とは、そういう意味だったのだ。

    瞑想のたびに語られるゴエンカ氏の

    「明確に知覚する意識」
    「完全なる平静の心」

    という言葉。
    これは、何を意味するか…考えた。

    意識は出る意識…つまりどんな相手をも自分の事のように観じ、慈しむ心、「慈愛」
    平静の心は、中に入る意識…どんな状況がきても平静心、変化するという真理を観じることで、それを体感し、安心である続け、許し、受け入れ続け…愛しつづける「愛」なのだ。

    そう思えたときに涙があふれた。

    なんだ、ただそう認めてしまうだけでよかったのだ。

    また、ただその状態で居続けさえしていればよかったのだ。

    それから瞑想はせずに、ただひたすら

    「慈愛」と「愛」であり続けた。

    すると、瞑想状態と全く同じ現象、活元運動が出た。

    知花先生の「愛一元瞑想」と同じことだったんだ。

    と、またつながる。

    いろんなコトが、いろんな状態とつながる。

    怒涛のような気づきの瞑想会だった。

    10日目

    なぜひたすら目線も合わせずに会話もしないのか…
    本もノートもとらないのか…
    自分以外だれもいないかのようにふるまうのか…
    姿勢を保たなければならないのか…
    知覚を観察しつづけるのか…

    疑問に思ったことがずべてその理由が分かった。
    うーん、それなりの理由がすべてあった。
    やはり、まず体験か。

    これは、もうやり続けていく以外にない。

    これを維持するには、1日朝夕1時間ずつの瞑想と年に1度の瞑想会の参加がいるという。
    ぜひキープしていきたい!

    御釈迦さんは、自分の意識を観察しつづけて、原子より小さいクウォークの崩壊まで瞑想で理解していたという。

    まさに意識の探求。

    なぜ見れるのか、聞こえるのか、触れられるのか…

    それらすべて、偏在する意識が宇宙を構成しているので、意識が意識されたとき、発見された意識が共鳴し、「知覚」という現象が肉体に起こる。
    そんな考えが浮かぶ。

    宇宙は意識で充満している。

    未知なる自己を探求するためにこの肉体という宇宙が与えられた。

    宇宙は自己にほかならないのだから…

    瞑想は、精神の科学

    意識の底に宇宙が浮かぶ



    【2012.01.20 Friday 08:15】 author : そば打ちジュンちゃん
    | - | comments(1) | trackbacks(0) | - |
    この記事に関するコメント
    ヴィパッサナー瞑想の合宿の中身や
    ジュンさんの心の動きについても
    詳しく書いてあってとても面白かったです!

    私のメモブログに講和テープの内容等
    転載させていただきました。

    2年以内には私も参加したいです。
    | エミリー | 2014/03/20 2:04 PM |
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